Medical Perspective · Field Notes
久しぶりにご実家を訪ねたとき、廊下の脇に積まれた新聞の束や、居間の床に置かれたままの紙袋に目が留まることがあります。親御さまご本人は長年その配置で暮らしてこられたため、不便を口にされることはあまりありません。けれども、つまずいた、手をついた、という小さな出来事が、ある日ふと会話に上るようになります。
高齢者の転倒は、骨折や入院をきっかけに生活の形を大きく変えることがあります。そしてその多くは、屋外ではなく住み慣れた住まいの中で起きているとされています。転倒予防というと筋力や服薬の話が先に浮かびますが、足元の環境という観点は見落とされがちです。
本稿では、当社代表の阿部が医師として在宅の現場を見てきた経験をふまえ、物の多さと転倒の関係、そして住環境の整理を進める際の考え方を順にたどります。
I. 転倒が暮らしを変えるまで
厚生労働省の国民生活基礎調査(2022年)では、介護が必要となった主な原因として「骨折・転倒」が上位に挙げられています。認知症や脳血管疾患と並び、要介護化の大きな要因のひとつとされています。
転倒そのものよりも、その後の経過が暮らしに影響することが少なくありません。たとえば大腿骨の付け根を骨折すると、手術と入院を経て、歩く力を取り戻すまでに時間を要することがあります。その間に活動量が落ち、筋力がさらに低下するという流れが生まれやすくなります。
また、一度転んだ経験から外出や家の中での移動を控えるようになる方もいます。医療の現場では、こうした転倒への不安がその後の生活範囲を狭めることが知られています。身体の傷が癒えた後も、暮らしの広がりが戻りにくいということがあります。
当社は、住まいを整えることを、こうした連鎖の手前で足元を確かめる機会と考えています。
II. 住まいの中で起きる転倒
東京消防庁の救急搬送データでは、高齢者の日常生活における事故のうち、およそ8割が「ころぶ」ことによるものとされています。発生場所としては、住宅などの居住場所が多くを占めると報告されています。
医学では、転倒の要因を大きく二つに分けて考えます。ひとつは筋力や視力、持病、服用している薬といった身体の側の要因です。もうひとつは段差や床の状態、照明といった環境の側の要因です。
身体の要因は、主治医や訪問診療医、リハビリテーションの専門職が向き合う領域です。一方で環境の要因は、ご家族が比較的手を入れやすい領域でもあります。物の配置を変える、床に置かれたものを片寄せる。それだけで動線の安全が変わることがあります。
整理の現場では、寝室からトイレまでの夜間の動線に物が置かれている住まいを多く拝見します。暗がりの中、半ば眠ったまま歩く数メートルは、日中とは異なる危うさを抱えています。
III. 物が多い住環境が抱える構造
物が多い住まいでは、通路の幅が狭まり、床面に物が置かれやすくなります。積み上げた荷物が照明や窓を遮り、足元が見えにくくなることもあります。電気のコードや敷物の端は、すり足になりがちな歩き方では引っかかりやすい箇所です。
物の多さは、怠慢の表れではありません。体力や視力が少しずつ衰えると、片付けそのものが負担になります。物が増え、動きにくくなり、さらに片付けが難しくなる。そうした静かな循環の中で、現在の住環境が形づくられていることが多いのです。
伝い歩きの家具は、すぐに動かさない
ここで留意したいのは、整理とは物を減らすことだけではないという点です。高齢の方の中には、棚やテーブルに手を添えながら移動されている方がいます。いわゆる伝い歩きです。見た目には雑然としていても、その家具が支えの役割を果たしている場合があります。
こうした家具を不用意に動かすと、かえって転倒の危険が高まることがあります。手すりの設置など、代わりの支えを整えてから動かす。順序を守ることが大切です。
IV. 整理を転倒予防の第一歩とするために
住環境の整理は、優先順位をつけて進めると負担が少なくなります。最初に取りかかりたいのは、寝室、トイレ、廊下をつなぐ夜間の動線です。次に玄関や浴室など、段差や水まわりのある場所へと範囲を広げます。床に物を置かないことを、ひとつの目安にすると整えやすくなります。
進め方において何より重んじたいのは、ご本人の納得です。長年の暮らしの中で選ばれた物には、それぞれに記憶が宿っています。思い出の品は別の箱にまとめて手元に残す、一度にすべてを変えない、といった配慮が、ご本人の安心につながります。
介護保険には、手すりの取り付けや段差の解消を対象とする住宅改修の仕組みがあります。対象や手続きは状況によって異なるため、担当のケアマネージャーにご確認ください。身体の状態については、主治医や訪問診療医に相談されることをおすすめします。
当社では、エステート・ケアマネージャーが一人の専任担当として、仕分けから搬出、適正処理までをお預かりしています。ケアマネージャーや医療職の方々と情報を共有しながら、ご本人の暮らしの流れを損なわない整理を心がけています。
むすび
転倒予防は、特別な道具や大がかりな改修から始まるものではありません。夜中に歩く数メートルの床を確かめること。そこに、住まいを整える意味の一端があると当社は考えています。
寒白菊が霜の下でも静かに咲き続けるように、住み慣れた家での暮らしが穏やかに続くことを願っています。整理の進め方に迷われた際は、ご相談を承っています。

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