人は一生のあいだに、何人の人に会うのだろう。
ときどき考える。答えの出ない問いというのは、考えるのにちょうどいいのだ。
職業によって、ずいぶん違うはずである。医療の仕事なら、毎日たくさんの人に会う。会うというより、診察する。訪問診療なら、ご本人だけでなく、ご家族にも会う。小売りの店頭に立つ人、駅で働く人、営業で外を回る人。このあたりも、かなりの人数になる。もっとも、誰も数えてはいない。
学校の先生は、少し違う勘定になる。毎年顔ぶれは変わるけれど、一年のあいだ、同じ顔に毎日会う。深く、長く、そして区切りがある。外を出歩くのが好きな人は、また別の勘定になる。行く先々で知り合いを作り、立ち話をして、店の人と冗談を言い合う。すれ違うのではなく、出会ってしまうのである。ああいう腰の軽い、積極的な人たち——いまの言葉でいえば、陽キャというのだろうか——が一生に会う人数は、ちょっと見当がつかない。
そして、この人数は、人によって極端に違う。桁がひとつふたつ、平気で違う。毎日新しい誰かと名刺を交換する人がいる。決まった数人と、静かに深く付き合って暮らす人がいる。家からあまり出ずに、それでも一人かふたりと、長い長い時間を過ごす人もいる。
どちらが豊かか、という話ではない。千人と会って、千人を忘れることもある。一人と会って、その一人が一生を照らすこともある。数の多い少ないは、たぶん、人生の濃さとは別の帳簿に記されているのだ。これを読んでいるあなたの人数は、多いだろうか、少ないだろうか。どちらでも、いいのだと思う。あなたの帳簿は、あなたのものである。
つまり、ひとくちに会うといっても、いろいろなのだ。関係の深さもまったく違えば、続く時間もぜんぜん違う。数えることに、たぶん意味はない。意味はないのだが、考えてしまう。うちの会社の代表は医師なので、こんど機会があったら聞いてみたいと思っている。一生で、何人くらい診察するものですか、と。
さて。
お亡くなりになった方のお宅を片付けるのが、遺品整理という仕事である。
私たちは、会ったこともない方のお宅に、ずけずけと入っていく。まるで土足である。もちろんそれは比喩で、実際には靴を脱いで、靴下で上がる。それでも、亡くなられた方から見れば、土足のようなものかもしれない、と思うことがある。
もちろん、現場で生きた人に会わないわけではない。ご依頼者やご家族と、打ち合わせをし、確認をし、言葉を交わす。それは、ふつうの意味での出会いである。人数に数えるなら、文句なしに入る。
ただ、現場にはもうお一人いる、と私は思っている。もうここにいない、この家の主だ。会うことはできない。声も知らない。それでも、家具の置かれ方や、ものの仕舞われ方や、本の並び方を通して、私たちはその方と確かに顔を合わせている——そんな気がしてならないのだ。出会い、というより邂逅。思いがけなく、めぐり逢うこと。姿の見えない方との、一度きりの邂逅である。
だから、というわけでもないのだが、私は作業の前に、会ったことのないその方の人生に、一瞬だけ思いをはせる。機械的に片付けるのが本来なのだと思う。時間にも追われている。それでも、敬意だけは欠かせない。
前にも書いたけれど、片付けが終わったら、忘れる。忘れなければならない。それがこの仕事の礼儀だからだ。それでも作業の途中、いろいろな人生の断片に触れて、ふっと暖かいものを感じるときがある。
会ったことはない。話したこともない。でも、その方の湯呑みを包み、本を箱に収め、人生をそっと畳んだ。
——これは、人数に入るのだろうか。
入れておきたい気が、している。
(スタッフS)
追記。「靴下で」と書きましたが、実際の作業では、足を保護するためにスリッパや室内用の作業靴を履くことが多いです。自分の家でしたら床の危険に気づけますが、はじめてのお宅では気づくことが難しい場合があります。作業員の安全のため、ご理解をお願い申し上げます。



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