メメント・モリ、という言葉がある。ラテン語で memento mori、「死を想え」という意味らしい。ラテン語とはまったく縁のない人生を送ってきたけれど、この言葉だけは、なぜか他人という気がしない。
ところでこの言葉、表記が人によって少しずつ違う。メメントモリと続けて書く人もいれば、メメント・モリと真ん中に点を打つ人もいる。もちろん、元のまま memento mori と書く人もいる。memento は「忘れるな」、mori は「死ぬこと」。合わせて、いつか死ぬことを忘れるな。古代ローマには、凱旋する将軍のうしろに立って、この意味の言葉をささやき続ける役目の者がいたという話がある。人生でいちばん得意になっている瞬間に、である。ずいぶんなことをするものだが、言いたいことは、わかる気がする。
遺品整理という仕事は、乱暴にまとめてしまえば、お亡くなりになった方の人生を、短い時間で整理させていただく仕事である。もちろんそれが仕事のぜんぶではない。生前整理もあれば、お引越しにともなうお片付けもある。それでも仕事の中心にあるのは、もうここにいない誰かの、残されたものたちだ。
書斎のあるお宅に伺うと、その方のキャリアが、背表紙になって棚に並んでいることが多い。本の並び方には、その人が何を大事にして働いてきたかが、そのまま出る。図書館の書庫と違うのは、並べた本人がもうここにいない、という一点だけである。
和室の天袋や、押し入れのいちばん奥には、家族の時間が眠っていることがある。箱に収められ、丁寧に紐をかけられて、何十年もそのままになっているような時間だ。
私たちは、そこに踏み込まない。プライバシーが第一だからだ。見なくていいものは見ない。読まなくていいものは読まない。そして作業が終われば、見たものはすべて記憶から消去する。当社の方針であり、この仕事の礼儀でもあると思っている。記憶から消去、と書くとなんだか機械みたいだが、要するに、持ち帰らない、ということだ。現場のことは、現場に置いて帰る。医師が経営する会社で働いていると、守秘という言葉の重みについて考える機会が多い。
ところが、である。
私たちには、残されたものの中から、ご依頼者にお渡しすべきものを探し出す、という役目がある。通帳。印鑑。権利書。手紙。写真。誰かにとって、これから必要になるもの。これがなかなか、むずかしい。大事なものというのは、大事であるがゆえに、思いがけない場所にしまわれているからだ。
探すためには、その方の人生を、少しだけ想像しなくてはならない。この方は、何を大事にする人だったのか。大事なものを、どこにしまう人だったのか。深入りしてはいけない。けれど、少しだけ入っていかないと、見えないものが確かにあるのだ。
以前、距離というのはプロの道具箱に入っている大事な道具だ、と書いたことがある。今回のは、その続きのような話だ。距離を保つことと、想像すること。矛盾しているようだけれど、この仕事には両方いる。踏み込まずに、想う。たぶんこの仕事でいちばんむずかしくて、いちばん大事なのは、この一点なのだと思う。
そして、ひとの人生を想っていると、ときどき、矢印がこちらに返ってくる。
いつか自分も、こうして誰かに俯瞰される日が来るのだ。私の棚には、何が並ぶのだろう。私の押し入れの奥では、何が眠っているのだろう。どう見るかを考えていたはずが、いつの間にか、どう見られるかを考えている。いや、その前にあの部屋をどうにかしなくては、とも考える。私の部屋がいまだに片付いていないことは、以前書いたとおりである。
メメント・モリ。死を想え。昔の人は、いいことを言う。ただ、この仕事をしながら毎日すこしずつ想っていると、それは怖い言葉ではなくなってくる。想うことは、敬意を払うことと、よく似ているからだ。
当社では、お片付けをされる方のプライバシーを第一に考えながら、故人の人生に敬意を払って作業を行います——と、会社の案内には書いてある。堅い言い方だが、中身は今日書いたとおりのことだ。
死を想いながら、手を動かす。今日もどこかの家で、誰かの人生を、そっと畳んでいる。
(スタッフS)
※トップの写真は、スタッフSが日吉駅にて撮影しました。©northpole.inc


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