日吉、と聞けば、たいていの人は横浜市港北区を思い浮かべる。東急東横線の日吉駅、慶應の銀杏並木、駅前から放射状に延びる商店街。私もそう思って生きてきた——と言いたいところだが、少し事情が違う。
私は日吉の出身である。住所は横浜市。ただし、矢上川のすぐそば、川崎に寄った端のほうの。
川崎市幸区に、日吉という町名は、いまは無い。けれど名残はある。南加瀬の坂の途中に「幸区日吉合同庁舎」という建物が建っていて、幸区役所の日吉出張所や、市民館・図書館の日吉分館が入っている。町名は地図から消えても、役所の看板だけが、いまも「日吉」を名乗り続けている。
調べてみると、こういうことらしい。明治のころ、このあたり一帯は橘樹郡の「日吉村」という、ひとつの村だった。それが昭和12年(1937年)、矢上川を境にまっぷたつに分かれる。川の西側(駒林・箕輪など)は横浜市へ、東側(鹿島田・小倉・北加瀬・南加瀬など)は川崎市へ。きっかけのひとつは、その少し前に慶應義塾の日吉キャンパスができて、横浜と川崎の両方が「うちに来ないか」と村に声をかけたことだったという。村議会はずいぶん揉めたそうだ。そして、もとの日吉村の中心は、どうやらいまの合同庁舎のあたり——つまり川崎側だったらしい。
だから正確に言うと、「日吉」という名前を駅ごと持っていったのが横浜で、村の真ん中を持っていったのが川崎、ということになる。ふたつの日吉。どちらも本物で、どちらも少し欠けている。
子どものころ、私はこの事情を知らなかった。知らないまま、ひとつの謎に悩まされていた。電話である。
うちの市外局番は044だった。住所は横浜市なのに、である。ところが、友だちの家に電話をかけると、同じ「日吉」の、同じ横浜市のはずなのに045で、しかも市外料金がかかる。坂をひとつ越えただけの家が、電話の上では「よその街」なのだ。なぜなのか、誰に聞いても要領を得ない。インターネットなどない時代だから、調べようもない。044と045の境目は、子どもの私にとって、世界の端のようなものだった。

自分は横浜の人間なのか、川崎の人間なのか。アイデンティティ、というと大げさだが、あの頃の私は、たしかにそれを気にしていた。学校では「日吉」と言い、住所を書くときは「横浜市」と書く。それなのに、電話番号は川崎の044から始まる。いまなら、どちらでもいいじゃないか、と笑える。ただ、ふたつの名前のあいだで育つというのは、地図の線が人の暮らしをどう切るのかを、身をもって覚えることでもあった。
遺品整理の仕事をするようになって、私はこの境目を、別の角度から見るようになった。港北区のお宅に伺い、翌日は幸区のお宅に伺う。住所の市は違っても、お使いだったスーパーも、通っていた病院も、お子さんの通学路も、同じ坂の上と下で重なっている。残されたものが描く暮らしの地図には、矢上川の線は、たいてい引かれていない。市境は役所の都合で引かれるが、暮らしは地形に沿って流れるものなのだ。
さて、合同庁舎の前の坂を、そのまま上っていくと、加瀬山という小さな山の上に出る。夢見ヶ崎動物公園である。川崎市が運営する動物園で、入園は無料。駐車場も無料(ただし台数は少ない)。レッサーパンダやペンギン、そして大きな角を持つマーコールが、ごく間近で草を食んでいる。古墳や神社も同じ山の上にあって、歴史と動物と、ついでに眺めのよさが、歩いて回れる範囲に詰まっている。

疲れた日に、ふらりと寄る。入園料がいらないというのは、そういう寄り方を許してくれる、ということでもある。マーコールは、私が横浜の人間なのか川崎の人間なのか、まったく気にしていない。

ふたつの日吉のあいだで育った私は、いまはどちらにも伺う。それで、いいのだと思う。
(スタッフS)
※トップの写真は、幸区日吉合同庁舎。本文の写真とあわせて、スタッフSが撮影しました。©northpole.inc


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